グリーフのスパイラル

死別による喪失悲嘆により人はどのような感情の局面を体験するのでしょうか?心の内側にある「哀しみ」が変わらないまま、「混乱」「否認」「怒り」「抑うつ」「諦め」「転換」「再生」と様々な気持ちが入り乱れ、変遷していきます。

日本グリーフ専門士協会ではこの心の移り変わりを「グリーフスパイラル」として紹介しています。必ずしもそれぞれの局面を「段階ごとにステップアップする」ということではありません。「いろいろな局面を死別喪失がキッカケとなり体験する」有様を、グリーフスパイラルという概念で説明しています。

グリーフケア に従事する立場としては、どのような人のどのような喪失悲嘆であっても、必ずその人なりの「再生」があると信じ関わっていきたいものです。

グリーフスパイラル『転換』事例 

ご本人の了承のもとに、死別喪失を体験してからの心の道程を書き記しました。(なお個人情報の保護を目的に、実際のケースとは種々設定を変えてあります)

人は死別喪失をきっかけにどのような想いを胸中をかけめぐらせ、「転換」「再生」へと向かうのでしょうか?今回は「転換」の局面に至るまでの感情の変化に焦点を当て、事例紹介させて頂きます。

恨み続けた父との内的和解がもたらした『心の平安』

Aさんはまもなく50歳になろうとする男性です。2つ年下の奥様との間に一男二女があります。28年前に職場結婚し、今も共働きを続けています。この春、末っ子である次女さんが短大を卒業後に都内へ就職し、久々の夫婦2人暮らしが再開しました。

Aさんは10年ほど前に長らく音信不通であった実父を亡くしました。父が危篤状態にあることを知ったものの、生前に会いに行くことも葬儀に参列することもないまま現在に至りました。そのような状況の中で、Aさんは実父に対する想いが大きく変わる体験をされたそうです。その心の道程をふりかえり語って下さったことを、以下に紹介させて頂きます。

家族のために、と必死に働き続けて

教育と福祉の現場で長らく活躍してこられたAさんのこれまでは、幼い頃から苦労の連続でした。男女平等が叫ばれつつもその役割分担が固定していた時代、Aさんは一家の大黒柱として必死に働き続けてきました。

真面目で誠実なAさんは人望も厚く、着実に昇進を重ねてきました。一方、職場で知り合った妻は結婚後に仕事を辞め、家事育児を一切担い多忙なAさんを支えてきました。

子供達が親元を離れてからのAさんは「夫として父親として本当に責任を果たしてきたのだろうか?」とこれまでの人生をふりかえることが多くなりました。「信頼を裏切るような人間にだけは絶対ならない」と常に自分に言い聞かせ、生きてきました。そう語りながら微笑んだAさんの両眼には、涙がうっすらと滲んでいました。

幼少時の父の裏切りを、思春期に知る

Aさんは父親と幼い頃に生き別れています。Aさんの故郷は農業が盛んな地方でしたが、作業が少ない冬場は、男手は出稼ぎに出るのが当たり前でした。Aさんが小学校に上がる年、冬が過ぎ春になっても父親が戻らず、そのまま音信不通となりました。

元来、利発な少年であったAさんは、父が不在となってからますます勤勉になりました。2つ年下の妹の面倒もみる立派な長男坊として近所でも評判でした。外で働くようになった母親を助けるためみずから進んで家事も担いました。

中学生になったある日、Aさんは父親が出て行った背景に母以外の女性の存在があったことを知ります。出稼ぎ先で知り合った女性との間にすでに子供ももうけているらしい、という噂を風の便りで知ったのです。

「あの衝撃と悲しみは今も忘れることができません。まだ年端もゆかない頃から、この家の男は僕しかいないと、子どもながらに必死にがんばってきた自分が哀れでならなかった。父のせいでこんなにも苦労してきたのに、そんな状況に追い込んだ張本人は、新しい家族とのうのうと暮らしているなんて。言いようのない悔しさと腹立たしさで腸が煮えくり返る思いでした。

なぜ父はいなくなったのか?について、本当はずっと知りたかった。でもなんとなく、それを尋ねることは母を苦しめるような気がして、訊けずにきました。

どこかで事故にでもあったのだろうか、もしかしたらすでに死んでしまったのかも知れない。いろいろな自問自答を繰り返しながら、それでも必死に前を向いて生きてきたのに。その努力の全てが踏みにじられたような惨めさは耐え難く、いっそ死んでしまいたいと思ったほどです。」

父との死別より前に起きていた父との決別について、初めて口にされたというAさんの顔には、なんとも言えない悲哀の色が漂っていました。長きにわたり、誰にも心の内を明かすことができなかった苦悩の計り知れない深さを感じます。

立派な大人になって、子ども達を助けたい

高校生になったAさんはますます勉学に励み、奨学金も活用しつつ有名大学へ進学しました。女手ひとつで苦労して育ててくれた母に早く安心してもらいたい。自分が誰からも認められる立派な人間になることが、何よりも親孝行になるはずと信じ努力しました。

大学卒業後は児童福祉の領域で活躍し続けました。複雑な家庭環境の中、十分な生活や教育がままならない子ども達のために奔走し続ける日々を過ごしました。そんな毎日の中、幼少時からの心の傷がどこか癒されていく実感をAさんは得るようになっていたそうです。

父親による理不尽な裏切りに対する怒りや憎しみ、人生に対する無力感に苛まれる機会は次第に激減していきました。その一方で、時に言葉にできない動揺が胸中をかけめぐりました。

保護責任すら果たすことなく子を絶望の淵に追いつめる親達に出会うと、如何ともしがたい苦悩で心が揺れ、胸が張り裂けそうになる。それと同時に、かつての自分よりずっと過酷な生育環境をたくましく健気に生き抜く子どもたちの姿にどこか励まされ、勇気づけられる。その繰り返しによって徐々に、父親へのわだかまりが縮小されていきました。

そんな忙しくも充実していたある日、実父の危篤の知らせを受けます。ちょうど今から10年前の暑い夏の日でした。父方の遠い縁者が母に連絡をしてきたのです。父が出て行ってからすでに長すぎる年月が流れていました。父は進行性の不治の病にかかり、もはや看取りの時期を待つばかりであったそうです。

父の死を告げられた瞬間、Aさんの心に衝撃が走りました。

憎んでも憎みきれないと忌み嫌い続けてきた父が、この世からいなくなる。いっそのこと「ざまぁみろ!」と吐き捨ててもバチはあたらない、そんな風にすら思えました。しかしそのように簡単に気持ちが割り切れるはずもなく、やっと落ち着いてきたはずの内的葛藤に再び苛まれるようになりました。

母や妹、そして自分は、父の裏切りのためにどれだけ辛い思いをしてきたか。苦しくなった家計を担うため、暑い夏も寒い冬も新聞配達を続けてきた。欲しいものを親にねだることも、好きなスポーツに熱中することもなく、常に家族最優先で、我慢に我慢を重ねた少年時代。

せめて養育費だけでも入れてくれていたなら、まだ少しはちがっていたかも知れない。いつも家計のやりくりで頭がいっぱいだった青春時代、本当はやってみたいことが山ほどあった。そんなかけがえのない時間はもう二度と戻らない。

自分達を裏切ってまで添い遂げようとした女性とはすでに縁が切れたらしい父が、今はひとり収容先の病院で孤独に死を待つ身と知り、Aさんの心は揺れ続けました。

「自分たちを捨てた父が幸せになるなんて絶対に許せないと恨んできたのに……自分たちを犠牲にしてまで父が手にしたものが崩れ去っていたと知り、なんとも言えない落胆を感じました」

筆舌に尽くし難い葛藤で心揺れつつも、Aさんは「人生の終末期を迎える父に会いに行くことはしない」と決断されました。

「今さら会ったところで何も話すことはない。謝られてもどうしたらいいかわからないし、反応のしようもない。ましてもし父が自分達のことを思い出せなかったら?金輪際、父を許す機会を失ってしまうような気がするんですよ。

俺は俺なりに自分の人生に区切りをつけ、精一杯、この手で未来を切り拓いてきた。すでに俺自身が子どもたちの父親なのだ。もう過去は振り返らない」

そのように固く決心されたAさんは、病床の父を見舞うことも葬儀に出ることもなくこの10年間を過ごして来られました。

懐かしかった光景が突如、瞼に浮かび……

Aさんが50歳を迎えた初春、長女さんが里帰り出産のため戻ってきました。

長女さんにとっては二度目の出産です。長女さんご夫妻には、すでに小学校にあがる男の子がありました。初孫であるその男の子をAさんはとても可愛がり、よく遊びに連れ出してきました。

いよいよ長女の出産を真近に迎えたある日、Aさんは初めてお孫さんと二人だけで遠出しました。歩き疲れぐずるお孫さんを肩車して帰る道すがら、Aさんの脳裏にふと、自分が幼い日に父におぶられ帰路に着いた光景がよぎりました。

その瞬間、思いがけない懐かしさで胸があふれ、Aさんの目からとめどなく涙が流れ出したそうです。

それからしばらくしたある日、Aさんは初めて、父の眠る墓前にひとり、手を合わせに出かけました。その際、わきあがった気持ちを次のようにお話しして下さっています。(以下はAさんによる回想です)

「父を許せたとか、愛情を初めて感じたとか、そういうことではおそらくないと思います。けれど、自分と父との間にも強い親子の情で結ばれた瞬間が、一度はあったのだと思うとどうしようもなく泣けてきて…。

父の眠る墓前で、もう二度と訪れることはない最初で最期の墓参りをしてきました。親孝行する価値などカケラもない、酷い父だとずっと恨んできましたし、その気持ちは残念ながら、今も変わっていません。

……とはいえ、自分の人生をふりかえってみるに、悪いことばかりでは決してなかったと今では思います。同世代の友達のように自由で楽しい青春を謳歌した思い出は少ないなりに、精一杯、家族を守り続けてきた自負が私にはあります。

今では、かけがえのない家族、やりがいのある仕事に恵まれた自分自身を、心から誇らしく思えるようになりました。昔に比べて驚くほど心が穏やかです。

父のことは今でも尚、最低な男だと思っています。この世から消えたからといって、父が俺たちにした仕打ちがなくなるわけじゃない。

ですが俺だって、父親としてそんなに立派でもなかったなぁ、と最近は反省することだらけです。仕事の忙しさにかまけ何もかもを妻に任せきりで、いつの間にか気づいたら、子供たちは巣立っていたのですから。

孫の面倒を少しは見るようになって初めて、我が子の子育てには、かなり不参加だったと知らされます。児童福祉の専門家としてずっと、子どもに関わってはずなのに。そのやり方はちがう、と孫からさえダメ出しされる始末です。

母も苦労を重ねてきましたが、俺達を育てるためとは言え、仕事にはやりがいをもって働き続けてくれました。80代にもなる今も、地域のボランティア活動に余念がない。「お母さんは夫には恵まれなかったけど、子や孫と仲間には恵まれたから幸せ!」そう笑いながら、私たち夫婦の子育てもずいぶん助けてくれました。妻や子ども達もそんな母に感謝し、大切に接してくれます。

父が逝ってからこの10年、本当にこれで良かったのか?と自問自答してきました。生前にひとめ会っていたらどんな心境になったか、どちらか一つしか選べない以上、想像することしかできません。何度も想い描いては掻き消し続ける、苦しい時期を過ごしてきました。

でも不思議と今は、俺の選択は間違っていなかった!と胸を張れる自分がいます。父とのことだけじゃなく、どんな時も自分なりに精一杯、自分で決断してきた人生に悔いがないんですよね。

父の墓参りに行ける気持ちになれたのも、子育てがひと段落し、孫との時間を過ごす中で感じた何かが大きいように思います。今は人生に起きた全ての出来事に、感謝したい気持ちでいっぱいです。

健康には気をつけているつもりですが、50代にもなれば、いつどこでどうなっても、不思議ではないですよね。最近は同世代の友人知人の訃報を耳にする機会がそれなりにあります。

今までどこか父親のことをずっと背負い、反面教師として掲げてきました。ですがこれからは、自分が自分自身として何を大切に生きてきたのか?を家族に遺していけるような父親でありたいと願っています。父というよりは、ジジと呼ばれるようになりましたけども」


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前川 美幸(まえかわ みゆき)

前川 美幸(まえかわ みゆき)

日本グリーフ専門士協会理事。老人保健施設での介護支援専門員、訪問看護ステーションの立ち上げを経て、現在は終末期医療に従事。看護・介護の現場の両面からグリーフケアを伝えている。日総研出版『達人ケアマネ』に2017年6月から2018年6月にかけ、グリーフケアに関する連載を担当。